利用者・家族からのカスハラに、
施設はどこまで対応すべきか
――2026年、施設長が今すぐ整えるべき対応指針
介護職員の多くが、利用者または家族からのハラスメントを経験している――サービス種別によっては約7割という調査もあります。2025年6月に成立した改正労働施策総合推進法により、2026年10月1日からカスタマーハラスメント(カスハラ)対策が全企業に義務化されます。さらに東京都では2025年4月、全国初のカスハラ防止条例が施行済み。それでも現場では、『お客様だから』『認知症だから』という空気の中で、暴言・暴力・セクハラを職員が一人で抱え込み、静かに辞めていく。本記事では、施設長が今すぐ整えるべき5つの対応指針と、契約解除という最も重い判断の現実的な軸を、編集長・深瀬久博の現場視点で整理します。

1. いま、現場で何が起きているか
職員の約7割が、何らかのハラスメントを経験
厚生労働省「介護現場におけるハラスメントに関する調査研究事業」(平成30年度/三菱総合研究所、2019年3月報告書)によれば、サービス種別によっては介護職員の約7割が、利用者または家族から何らかのハラスメント(身体的暴力・精神的暴力・セクシュアルハラスメント)を受けた経験があると回答しました。訪問系サービスでは半数前後が被害を経験し、とくにセクハラの比率が高いこと、施設系サービスでは暴言・身体的暴力の比率が高いことが報告されています。
つまり『たまに困った利用者がいる』ではなく、介護現場ではハラスメントが日常の構造として存在している、というのが出発点です。
『お客様だから』が、職員を辞めさせている
現場で最も根深いのは、利用者・家族からの言動を『仕方ない』『そういう病気だから』『お客様だから』と無条件に受け止めてしまう文化です。認知症に伴う行動・心理症状(BPSD)と、明確な悪意・要求過剰なクレームは、本来まったく別物として整理されるべきものですが、現場ではそれが混同され、対応の線引きが個々の職員の我慢に委ねられてきました。
職員を守らない施設は、
結局のところ、
利用者も守れない。
2. 2024〜2026年、法的環境はこう変わった
改正労働施策総合推進法と、事業者の対応義務
2025年6月4日に成立した改正労働施策総合推進法(いわゆるパワハラ防止法の拡張)により、2026年10月1日から、カスタマーハラスメント(顧客等からの著しい迷惑行為)への対策が全企業に義務付けられます。介護事業者にも、施行を見据えて以下の対応の準備が求められます。
- 基本方針の明確化と周知。事業所として、利用者・家族からのカスハラを許容しないという基本姿勢を、契約書・重要事項説明書・掲示物等で明示する。
- 相談窓口の設置。職員が安心して相談できる窓口(管理者・第三者・外部機関)を整備し、職員に周知する。
- 事案発生時の迅速・適切な対応。事実確認、被害職員の保護、加害利用者・家族への対応、必要に応じた関係機関連携。
- 再発防止と職員配慮。事案を組織として記録し、配置転換・心理的ケアを含む被害職員への配慮を行う。
自治体カスハラ条例・ガイドラインの整備
国の法改正に先行する形で、東京都が全国初の「カスタマー・ハラスメント防止条例」を2024年10月11日に公布、2025年4月1日に施行。同条例は罰則を伴わない理念条例ですが、事業者・顧客等・就業者それぞれの責務を明確にしました。北海道・三重県など他の自治体でも同種の条例・指針整備が進んでいます。介護に関しては、厚労省「介護現場におけるハラスメント対策マニュアル」が、『正当なケアの要望』と『カスハラ』を区別する基準や施設として整備すべき手順を示しています。
放置した場合の、法的・実務的リスク
事業者がカスハラを認識しながら職員を保護しなかった場合、安全配慮義務違反として民事責任を問われ得るほか、労災認定(精神障害)や、是正勧告・指導の対象となる可能性があります。離職・採用難の悪化、損害賠償、自治体からの行政指導――『動かないこと』のコストの方が、すでに高くなっています。
3. カスハラの3類型と、現場での具体例

類型① 身体的暴力
叩く、つねる、唾を吐く、物を投げる、髪を引っ張る、噛みつくなど。認知症によるBPSDとして起こる場合と、利用者本人の意思的な攻撃として起こる場合があります。前者は『ケア計画上の課題』、後者は『安全配慮上の課題』として、対応軸が分かれます。
類型② 精神的暴力(暴言・侮辱・脅迫・過剰要求)
人格を否定する暴言、土下座要求、SNSへの晒し脅迫、深夜・早朝の長時間電話、根拠のない返金・処分要求、職員の人事への執拗な介入など。家族からの『うちの母を担当から外せ』『管理者を出せ』が日常化している現場は要注意です。
類型③ セクシュアルハラスメント
身体への接触、性的な発言、入浴・排泄介助場面での性的な要求、写真・連絡先の執拗な要求など。とくに訪問系サービスの単独訪問場面で発生しやすいことが各種調査で示されています。
4. 施設長が整えるべき、5つの対応指針
指針① 基本方針の文書化と、契約時の合意
『当施設は職員へのハラスメントを許容しません』という基本方針を、契約書・重要事項説明書・施設パンフレット・館内掲示の4箇所に明記します。重要事項説明書には、繰り返されるカスハラに対しては『契約解除を含む対応を取る場合がある』ことまで書き込みます。入所・利用契約時に家族にも口頭で確認し、署名をいただきます。これだけで、後の対応の重みがまったく変わります。
指針② 記録とエスカレーションの統一フロー
個別職員のメモではなく、所定の『ハラスメント発生記録票』を整備し、発生日時/場所/関係者/具体的言動/対応/報告先を統一フォーマットで記録します。重要なのは、(A)軽微な事案も必ず記録、(B)管理者は24時間以内に内容を確認、(C)一定基準(暴力・脅迫・反復)を超えた場合は法人本部または運営会議に必ずエスカレーション、というルールを明文化することです。
指針③ 一人で抱えさせない、心理的安全の設計
被害を受けた職員には、『あなたに非はない』を必ず最初に伝える。これが起点です。そのうえで、必要に応じてシフトの組み替え、複数名対応への切り替え、担当変更、心理職・産業医・EAP(従業員支援プログラム)への接続を行います。月1回のミーティングで『今月、職員が我慢を強いられた場面』を共有する時間を5分でも持つだけで、現場の空気は変わります。
指針④ 加害利用者・家族への、段階的対応
(1)まず管理者から事実確認と注意喚起(口頭・記録)/(2)改善されない場合は文書での申し入れ/(3)それでも継続する場合はサービス担当者会議で関係機関を含めた対応協議/(4)最終手段として契約解除。『いきなり契約解除』ではなく、段階を踏んだ記録の蓄積が、自治体・弁護士・家族との後日の話し合いで施設を守ります。
指針⑤ 警察・弁護士・自治体・ケアマネとの連携
身体的暴力・脅迫・性的接触については、ためらわずに警察相談(#9110)を活用します。並行して、顧問弁護士・保険会社・所管自治体高齢福祉課・担当ケアマネジャー・地域包括支援センターとの連絡網を平時から整えておきます。『どこにどの順で連絡するか』を一枚の連絡フロー図にして、相談窓口に貼っておくのがおすすめです。

5. 『契約解除』という、最も重い判断の軸
介護施設にとって契約解除は、利用者の生活基盤に関わる重い判断であり、軽々に行うべきではありません。一方で、職員の安全と人権を守ることもまた、事業者の重大な責務です。次の3つの軸で判断します。
軸① 事業者として『改善の機会』を十分に提供したか
指針④の段階対応(口頭注意→文書申し入れ→関係者会議)を経ていることが大前提です。記録票・通知文書・会議録が揃っているかを確認します。
軸② 利用者本人の意思と、家族のカスハラを切り分けたか
『契約解除の対象』が、利用者本人の認知症由来の言動なのか、家族の意図的な威圧・要求過剰なのかを冷静に切り分けます。家族カスハラを理由とした契約解除は法的にも比較的整理しやすい一方、本人由来の場合はケア計画・受入体制の見直しを優先します。
軸③ 次の受け皿(移行先)の確保に、誠意を尽くしたか
包括支援センター・所管自治体・他の介護事業者と連携し、移行先の確保に施設が誠意をもって関わったかが、後日の評価を分けます。『追い出した』ではなく『安全のために、より適した場所への移行を支援した』と言える状態を作るのが、施設長の仕事です。
6. 規模・サービス別の、実装パターン
小規模訪問介護(職員8名/登録ヘルパー15名)
単独訪問が中心で、セクハラ・暴言リスクが高い類型。打ち手は、①利用契約時の重要事項説明にカスハラ条項を必ず含める、②全ヘルパーに『発生記録票』をスマホアプリ等で即時提出できる仕組みを用意、③ハイリスク利用者宅は複数名訪問・男性ヘルパー配置・訪問時間短縮などの個別対応を躊躇しない。④管理者は月1回、全ヘルパーに『困った場面なかったか』を個別ヒアリング。
中規模デイサービス(定員30名/職員12名)
家族からの過剰要求・SNS脅迫が起きやすい類型。①送迎時間や提供内容の変更要求は管理者に必ず一本化、②家族からの長時間電話は『折り返し対応+録音記録』を標準化、③半年に1回の利用者・家族向け説明会で施設の基本方針を再確認、④事案発生時は法人本部にエスカレーション。
大規模特養(入所者100名/職員80名)
身体的暴力・夜勤帯対応・家族との長期関係維持が課題。①法人として『ハラスメント対策委員会』を設置、②全職員年1回のハラスメント研修+管理者・主任向け年2回の対応研修、③産業医・EAP・カウンセラーとの常時連携体制、④契約解除を想定したケース検討会を四半期に1回。
7. よくある誤解と、回避法
誤解① 『認知症の方の言動はすべて受け止めるべき』
BPSDとしての言動でも、職員の安全が脅かされるなら『ケア計画の見直し対象』として整理します。『仕方ない』で済ませないことが、結果的にその利用者のケアの質も上げます。
誤解② 『記録に残すと、家族とこじれる』
むしろ逆です。記録のない口頭注意は、家族から『そんなことは言われていない』と覆されます。記録は職員と施設だけでなく、家族との合意形成の基盤でもあります。
誤解③ 『契約解除は、施設の評判を落とす』
正しい手続きを踏んだ契約解除は、ケアマネジャー・地域包括・他事業者からむしろ評価されます。逆に『あの施設は何でも受け入れるから職員が定着しない』という評判の方が、長期的にはるかに大きな損失です。
8. 今すぐやるべき、3つのアクション
| No. | アクション | 期限 | 効果 |
|---|---|---|---|
| 01 | 重要事項説明書にカスハラ条項を追加し、館内掲示を1枚作る | 今週中 | 基本方針の明確化 |
| 02 | 『ハラスメント発生記録票』とエスカレーション基準を文書化し、全職員に周知 | 1ヶ月以内 | 記録と連携の標準化 |
| 03 | 顧問弁護士・自治体・包括・警察相談(#9110)の連絡フロー図を作成し、相談窓口に掲示 | 3ヶ月以内 | 対応力と安心感の獲得 |
9. 施設長のための、チェックリスト
- 事業所として『カスハラを許容しない』基本方針を文書化している
- 重要事項説明書にカスハラ条項と契約解除可能性を明記している
- 館内・各事業所にカスハラ防止の掲示物を貼っている
- 『ハラスメント発生記録票』が整備され、全職員が記入できる
- エスカレーション基準(暴力・脅迫・反復)が明文化されている
- 相談窓口(管理者・第三者・外部機関)が職員に周知されている
- 被害職員への配慮(シフト変更・複数名対応・心理ケア)の手順がある
- 段階的対応(口頭→文書→会議→解除)の手順を管理者が理解している
- 顧問弁護士・自治体・包括・警察への連絡フロー図がある
- 全職員年1回以上のハラスメント研修を実施している
- 事案記録の保管期間・取扱ルールが定められている
- 契約解除を想定したケース検討の機会を年1回以上持っている
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10. 参考資料・出典
- 厚生労働省 平成30年度老人保健健康増進等事業「介護現場におけるハラスメントに関する調査研究 報告書」(2019年3月/株式会社三菱総合研究所)
- 厚生労働省「介護現場におけるハラスメント対策マニュアル/事例集/研修の手引き」
- 厚生労働省「令和7年労働施策総合推進法等の一部改正について」(2025年6月4日成立/2026年10月1日施行)
- 東京都「東京都カスタマー・ハラスメント防止条例」(条例第140号、2024年10月11日公布/2025年4月1日施行)および東京都産業労働局関連指針
- 各自治体(北海道・三重県ほか)のカスハラ対策条例・ガイドライン
- 警察庁「警察相談専用電話 #9110」案内
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本記事の制度・統計・自治体条例は、厚生労働省、各自治体の公表資料に基づき2026年5月時点の情報を整理したものです。実際のカスハラ事案への対応・契約解除・法的措置にあたっては、最新の一次情報および所管自治体・顧問弁護士・社会保険労務士等の専門家への個別相談を必ずあわせてご確認ください。