介護施設の、M&A・事業承継ガイド2026
――後継者不在・倒産回避のための売却準備と『失敗しない』9つの実務ポイント
介護事業の経営者は60〜70代が中心層。後継者不在のまま体力の限界を迎え、結果として『売り急ぎで買い叩かれる』『廃業を選ばざるを得ない』事業所が年々増えています。M&A・事業承継は準備3年・実行1年の長期戦。本記事では、事業価値の高め方、売却プロセス、仲介会社の選び方、従業員・利用者の引継ぎ、親族内/MBO/第三者承継の使い分けまで、編集長・深瀬久博が経営者目線で整理します。

1. 介護業界の事業承継、何が起きているか
経営者の高齢化と後継者不在
中小企業庁・帝国データバンク等の調査で、中小企業全体の後継者不在率は約5〜6割。介護・福祉領域も同様の構造で、創業期に立ち上げた経営者の引退時期が一斉に到来しています。次世代候補(親族/幹部職員)がいない事業所では、第三者承継(M&A)か廃業の二択に追い込まれます。
『廃業よりM&A』が標準解になりつつある
廃業は職員の雇用喪失・利用者の行き場喪失・地域からの拠点消滅を伴います。一方で第三者承継は、買い手企業の経営資源で事業継続が可能。国は『事業承継・引継ぎ支援センター』を全国に設置し、中小・小規模事業者のM&A・承継を後押ししています。介護領域でも、同業大手・異業種参入企業からの買収ニーズは高水準で推移しています。
売り急ぎは必ず買い叩かれる
体力の限界・赤字転落・人手不足の限界点に達してから売却を相談すると、評価額は本来の半分以下になることも珍しくありません。『売る予定がなくても、いつでも売れる状態に整えておく』のが、経営者の最後の責任です。
事業承継は、
『売る』日のためではなく、
『いつでも売れる』状態を作るためにある。
2. 承継の『3類型』と判断軸
類型① 親族内承継
子・配偶者・兄弟姉妹への承継。理念の継承がしやすく、職員・利用者の安心感も高い。一方で、後継者の経営力・覚悟が問われる。5〜10年の育成期間を見込み、計画的にバトンを渡す設計が必要。
類型② 社内承継(MBO・幹部承継)
施設長・幹部職員への承継。現場理解が深く、引継ぎがスムーズ。課題は、後継者個人に株式買取資金がないこと。分割払い・持株会・MBOファンドの活用等、資金スキームの工夫が要点。
類型③ 第三者承継(M&A)
同業他社・異業種・投資ファンド等への譲渡。資金回収のスピードと買い手の経営力が魅力。一方で、理念・現場文化が大きく変わるリスクがあります。買い手の選定基準を売り手が握り切ることが、成功の分かれ目です。
| 類型 | 向くケース | 主な課題 |
|---|---|---|
| 親族内 | 後継候補が現にいる/理念継承を最優先 | 育成期間・経営力・親族間調整 |
| 社内(MBO) | 幹部職員に経営意欲がある/現場一体感を残したい | 株式買取資金・債務保証の引継ぎ |
| 第三者(M&A) | 後継不在/資金回収を優先/拡大資源が欲しい | 買い手の理念適合度・文化統合 |
3. 事業価値を高める『9つの実務ポイント』

ポイント① 直近3期の決算を黒字基調に整える
買い手は直近3期のEBITDA(営業利益+減価償却費)を最重要指標として見ます。赤字が続く事業所は評価額が大きく下がるため、売却検討の3年前から黒字化に集中することが、最大の価値向上策。
ポイント② 稼働率(入居率)を継続的に高水準維持
特養・老健・有料・サ高住等の入居系は稼働率90%以上が安定評価の目安。通所系・訪問系は利用者数・延べ利用日数の安定推移が重要。直近半年の数字でブレがあると、買い手は減額交渉してきます。
ポイント③ 加算取得状況を最大化
処遇改善加算・特定処遇改善加算・科学的介護推進体制加算・サービス提供体制強化加算・ADL維持等加算等を取得し切れているか。買い手は『取り損ねている加算の伸びしろ』もポジティブ材料として評価しますが、取得実績がある方が圧倒的に安心されます。
ポイント④ 人員配置基準と職員定着率の安定
人員配置基準ギリギリ・離職率高止まりの事業所は、引継ぎ後に崩壊するリスクとして大きく減額されます。離職率の改善と採用力の底上げは、売却準備の必須項目。
ポイント⑤ 行政指導・実地指導の履歴を整える
過去の行政処分・指導歴はデューデリジェンスで必ず洗われます。是正対応の記録、改善計画書、現状の運営状況を書面で示せる状態にしておく。隠すと破談・損害賠償の原因になります。
ポイント⑥ 不動産・建物・設備の整備
建物の築年数・修繕履歴・耐震基準・消防適合を整理。土地が自社所有か借地かで評価が大きく変わります。借地の場合は地主との契約期間・更新条件を明確化。
ポイント⑦ 簿外債務・隠れリスクの解消
未払い残業代、退職金引当不足、訴訟係争、税務リスク、保険未加入など、簿外債務は売却価格を直接下げる要因。売却検討前に税理士・社労士・弁護士と棚卸しを行い、解消可能なものから順に処理。
ポイント⑧ 経営の『見える化』と組織化
経営者個人に依存している事業所(社長がいないと回らない)は『属人リスク』として大幅減額。組織図・職務権限規程・業務マニュアル・経営会議の定例化を整え、『仕組みで回る事業所』であることを示す。
ポイント⑨ 中期事業計画と数字根拠の準備
買い手は『この事業所を買うと、3〜5年後にどう成長するか』を見ます。自社で中期計画(売上・利益・新規加算取得・人員計画)を作っておくと、評価交渉の土台になります。
4. M&Aの『標準プロセス』
STEP1 準備(3〜12ヶ月)
会計・税務・労務の棚卸し、株主整理、不動産権利関係の整理、中期計画策定。『売り出せる状態』にする工程。
STEP2 仲介会社・アドバイザー選定(1〜3ヶ月)
複数社から提案を取り、得意領域・手数料体系・実績・担当者の力量で選定。介護業界のM&A実績がある会社が前提条件。
STEP3 ノンネーム打診〜候補企業選定(2〜6ヶ月)
事業名を伏せた『ノンネームシート』で買い手候補へ打診。関心を示した候補と秘密保持契約(NDA)を結び、詳細情報を開示。複数候補と並行交渉が原則。
STEP4 基本合意〜デューデリジェンス(2〜4ヶ月)
買い手と基本合意書(LOI/MOU)を締結し、財務・法務・労務・ビジネスのデューデリジェンスを受け入れる。ここでの開示の精度が、最終条件を左右します。
STEP5 最終契約〜クロージング(1〜3ヶ月)
株式譲渡契約/事業譲渡契約を締結し、対価決済・経営権移転。表明保証条項の範囲をしっかり読み込み、過大なリスクを残さない。
STEP6 PMI(統合プロセス、6〜24ヶ月)
職員の不安解消、利用者・家族への説明、ブランド統合、業務システム統合、人事制度すり合わせ等。『売却して終わり』ではなく、ここから2年が本番です。
5. 仲介会社の選び方(5つの軸)
- 介護領域のM&A実績本数(大手他社の介護領域取扱件数)
- 手数料体系(着手金/中間金/成功報酬/レーマン方式の率と最低額)
- 仲介型/FA型(売り手専属アドバイザー)どちらか/併用可否
- 担当者の介護業界経験年数とコミュニケーション相性
- 買い手候補ネットワーク(同業/異業種/ファンドのバランス)
6. 職員と利用者を守るための『6つの引継ぎ』

引継ぎ① 雇用条件の維持を契約に明記
『現職員の給与・賞与・退職金・勤続年数を、譲渡後一定期間(通常2〜3年)は引き下げない』を契約条件に。これは買い手にとっても定着リスクを下げる合理的な条項です。
引継ぎ② 職員への説明タイミングを設計
クロージング直後〜数日以内に、経営者本人から全職員へ説明会を実施。新オーナーも同席し、雇用条件・運営方針を直接説明することで、不安を最小化。
引継ぎ③ 利用者・家族への通知
職員説明と同日〜数日以内に、書面と対面で説明。サービス内容に変更がないこと、担当職員が継続することを丁寧に伝える。
引継ぎ④ 行政・関係機関への手続き
指定権者への事業者変更届、関係機関(地域包括・居宅介護支援事業所・医療機関)への通知。漏れがあるとサービス提供に影響するので、専門家のサポート必須。
引継ぎ⑤ 業務マニュアル・ノウハウの文書化
創業者の頭の中にある『暗黙知』を承継前に文書化。ケアの考え方、苦情対応ノウハウ、行政対応の勘所などを引継ぎ書にまとめる。
引継ぎ⑥ 経営者の『離れ方』を設計
譲渡直後の急離脱は混乱を招きます。6ヶ月〜1年は顧問・相談役として関与し、徐々にフェードアウトするのが望ましい。一方、過度に居座ると新オーナーの経営を阻害するため、退任時期を契約で明記。
7. 失敗パターンと回避策
失敗① 売り急ぎで買い叩かれる
体調悪化・資金繰り逼迫の段階で動くと、必ず足元を見られます。健康なうちに準備を始めるのが鉄則。
失敗② 1社の仲介だけで決めてしまう
必ず2〜3社から提案を取り、評価額・条件・手数料を比較する。1社専任契約に焦って判子を押さない。
失敗③ 隠していた簿外債務がデューデリジェンスで発覚
未払い残業代・税務リスク・係争中の労務トラブルなどは隠さず先に開示。後で発覚すると損害賠償・契約解除になります。
失敗④ 職員への説明が後手に回る
風の便りで噂が広がり、エース職員が先に退職するパターン。クロージング直後の全体説明会+個別面談を必ずセットで設計。
失敗⑤ 売却益の税務対策を後回しに
株式譲渡益には約20%(所得税15%+住民税5%+復興特別所得税)の税負担。退職金活用・資産管理会社活用などで節税余地があるため、税理士と売却の1〜2年前からシミュレーションを。
8. 公的支援と相談先
事業承継・引継ぎ支援センター
国が全国都道府県に設置している無料の相談窓口。中小・小規模事業者の親族内承継・第三者承継の相談から、仲介会社マッチングまで対応。最初の相談先として最適。
事業承継・引継ぎ補助金
事業承継・M&Aに伴う専門家費用・設備投資費用の一部を補助する制度。年度ごとに公募内容が変わるため、中小企業庁・経産省の最新情報を確認。
事業承継税制(特例措置)
親族内承継に伴う株式の贈与税・相続税の納税猶予・免除制度。要件が複雑なので、認定経営革新等支援機関である税理士に相談を。
9. 今すぐやるべき、3つのアクション
| No. | アクション | 期限 | 効果 |
|---|---|---|---|
| 01 | 後継者候補の有無を棚卸し(親族/幹部/第三者) | 今月中 | 承継3類型の選択肢が見える |
| 02 | 事業承継・引継ぎ支援センターに無料相談 | 2ヶ月以内 | 公的支援の全体像を把握できる |
| 03 | 税理士・社労士と簿外債務の棚卸しを開始 | 3ヶ月以内 | 評価額の下振れ要因を解消できる |
10. 経営者セルフチェック10項目
- 自分の引退時期(年齢)を具体的に決めている
- 後継者候補の有無(親族・幹部・第三者)を棚卸し済み
- 直近3期のEBITDA推移を経営会議で共有している
- 稼働率・離職率・加算取得状況を月次でモニタしている
- 簿外債務・未払い残業代等のリスクを把握している
- 不動産権利関係(自社所有/借地)と修繕履歴を整理済み
- 経営が経営者個人に過度依存していない(仕組みで回る)
- 事業承継・引継ぎ支援センターへの相談を済ませた
- 仲介会社/FAアドバイザーから2社以上の提案を取った
- 税理士と売却時の税務シミュレーションを実施した
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11. 参考資料・出典
- 中小企業庁「事業承継ガイドライン」「中小M&Aガイドライン」
- 独立行政法人 中小企業基盤整備機構「事業承継・引継ぎ支援センター」公表資料
- 帝国データバンク「全国企業『後継者不在率』動向調査」
- 厚生労働省「介護事業経営実態調査」
- 国税庁「事業承継税制(特例措置)」関連通達
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本記事の内容は、本稿執筆時点(2026年5月)の中小企業庁・国税庁・事業承継引継ぎ支援センター等の公開情報および編集部取材に基づきます。M&A・事業承継の実務は事案ごとに異なります。最終判断にあたっては、必ず認定経営革新等支援機関の税理士・公認会計士・弁護士等の専門家にご相談ください。